奈良県における建築関係の組織の歴史は古く、特に聖徳太子によって「さしがね」が発明され(口伝)、 太子を祀る法隆寺があることによって、今日なお全国各地に太子講があるごとく、本県においても古くから太子講によって 建築技術労働者は組織を持ち続けてきた。
戦前のある時代には、労働者も請負業者も共に法(取締法)によって建築工業組合(建工組合)に統合され、 昭和16年に奈良県建築組合連合会の名のもとに労務報国会が作り上げられ、軍の圧力と警察権力に牛耳られ、 命令に対する絶対服従のみの機関と化し、建築技術労働者達の組合の姿は遂に消え去った。
戦後は、「生きる」ことのみに必至であった昭和20年頃には、 戦時中の労報組織をそのままに看板だけを塗りかえて、 私たちの前進となる奈良県建築業労働組合として建築労働者の組合が発足した。 まず、生活の足しになるためにと終戦物資の獲得に努め、これらの配給によって組合員の生活を守り組合の存在価値も認められていた。
昭和21年頃、この建築業労働組合が中心になり山林・交通・繊維・その他労働者の組合に呼びかけ、 本県初の労働組合の統一体である奈良県労働組合総連合の結成をみたのである。この頃から建築技術労働者にも税金がかかるようになり、 不当で重税なため組合は税務署に減税を要求した。この税金闘争を通じ労報の看板塗りかえだけであった組合も、 だんだんと労働者の利益を守る組合になり闘う組織へと成長した。
一方、全国的に各種労働組合の動きもようやく盛り上がり、経済闘争のみでは労働者の生活は守れないため 政治闘争へと激化していくこととなる。この時期に本県においては、より大きな労働戦線の統一が打ち出され、 昭和22年に奈良県全労働組合協議会(全労協)の結成に成功し約4万人の組織となり建築業労組約2,300人もこれに参加した。 その後、建築業労組は昭和23年秋頃より働く者による土建会社づくりが計画され、企業の合理化と仕事の確保を図ろうとしたが、 内容の不理解と運営の複雑さ及び飛躍しすぎた空想に近い計画であったため失敗に終わりその余波をくって建築業労組も同時に解散してしまった。
解散後も、税金・賃金・仕事その他の多くの問題があり、職人としての根強いつながりは、 そう簡単には消えず。県下の各地区では組織をもち続け、特に北和地区においては、北和建築労働組合の名のもとに 団結しており活動も続けていた。そこで昭和24年頃から各地区で組合をつくる話し合いが進められ、新しい労働者の手による組合づくりが始まった。
昭和25年4月に大和高田市の『高田社会館』(現在の南本町)において奈良県建築労働組合設立総会を開催。
ここに、太子講、建工組合、建築組合連合会、労務報国会、建築業労働組合と連綿と続いてきた流れをうけて初年度組合員数450名で現在の組合組織となる第一歩を踏み出した。
<初代役員>
<組合事務所>
(旧)大和高田市大国町
『近鉄高田駅前南口』の正木書記長宅に設置される。